かけ違い

 最近は朝ベッドから起き出すとき、とても慎重になる。畢竟自分の内のあらゆる五感を集中させて恐る恐る自らを打診してみるのが癖になっていた。
 ボタンをかけ違ったままスタートすると、その日はどんなに焦っても駄目なのは、すでに経験しているから神に祈るような気持ちでもあるのだ。
 実際、わたしの神は気前がいい方で、階下に降りてパソコンの前に座るまで心から切望すれば、ささやかな望みは叶えられて、ボタンと穴を上から順にきちんと修まるように手はずを整えてくださる(ときもある)。
 この気まぐれな審判に決して不満を言っている訳ではない。私自身の神も、その時その時で仏の姿をしたり、もっと人間的な形をとっていたりと曖昧なので今朝はどの方がお聞きくださったのか確かめるすべもないのだから。

 なかでも最近エホバ神との係わりは深く比較的長い。かれこれ10年になるだろうか、週一回クリスチャンがうちにやって来て聖書を学んでいるが、この10年のほとんど初期からずっと変わらずひとりのクリスチャンが通いつづけてくれているのである。われわれが聖書を繙いているとき、飽きもせずそれなりに新鮮な気持ちを抱くことが出来るのはひとえに彼女の力量(エホバが支えているのかな、彼女はそう思っているらしい)と私は思っている。
 この神は闘争的で嫉妬深く、所有欲が強く専制的である。今朝は少なくともそういう想いに支配されているようだ。
 このブログを彼女が開けて見たら、申し訳ない事だが、きっと大きく傷つくに違いない。(自虐に支配されているのかな)